選ばなかった人生と、選べなかった人生は違う。
2026/10/23
私が生徒に高みを目指させる理由
私は、生徒に高い目標を持たせたいと思っている。
今の成績では難しいと言われる学校でも、本人に可能性があると思えば、挑戦してみないかと提案する。
勉強していない生徒には勉強するように言う。決めたことをやらなければ注意するし、目標に届かない理由が分かっていれば、そこを改善するように求める。
おそらく私は、生徒に対して甘い先生ではない。
けれど、私が生徒に高みを目指させるのは、難関校に合格させること自体が目的だからではない。
私が本当に恐れているのは、子どもたちが将来、何かをしたいと思ったときに、「自分にはできない」と諦めるしかなくなることだ。
そして私は、子どもが自分の意思で何かを「選ばない」ことと、そもそも「選べない」ことには、決定的な違いがあると思っている。
「やらない」という言葉が隠してしまうもの
子どもが勉強しないとき、大人はよく「やる気がない」と言う。
確かに、できるのに面倒くさくてやらないことはある。勉強より遊びたい日もあるだろうし、単純に怠けてしまうことだってある。
けれど、それだけではない。
数学の問題集を開いても、最初の一行が理解できない。
英語の長文を読めと言われても、単語も文法も分からない。
宿題をやろうとしても、どこから手をつければよいか分からず、結局何もできない。
こういう子どももいる。
周囲から見れば、どちらも「宿題をやってこない生徒」だ。
しかし、実際にはまったく違う。
できるけれどやらない子に必要な働きかけと、できないからやらない子に必要な支援は、同じであるはずがない。
後者に対して「もっと頑張れ」と繰り返したところで、できなかったものが突然できるようになるわけではない。
むしろ、努力しても分からなかった経験を積み重ねるうちに、「自分は勉強ができない人間なんだ」と思い込んでしまうことがある。
本来は、学び方を変えれば理解できたかもしれない。前の単元に戻れば解けたかもしれない。取り組む量を調整すれば、続けられたかもしれない。
その可能性を確かめないまま、本人の性格や能力の問題として片づけてしまうことに、私は違和感がある。
ただ、ここで気をつけなければならないのは、「できるけどやらない」と「できないからやらない」を、大人が簡単に判定できるわけではないということだ。
勉強の内容は理解していても、計画を立てられない子もいる。失敗が怖くて取りかかれない子もいる。学校生活や家庭の事情、心身の不調によって、勉強に使える力が残っていないこともある。
本人ですら、自分がなぜできないのか分かっていない場合がある。
だからこそ、教育者は決めつけてはいけない。
やらなかったという結果だけを見るのではなく、やろうとしたのか、どこで止まったのか、何が不足しているのかを確かめる。
叱るべきところは叱る。
けれど、それ以前に教えるべきことがあるなら、まず教える。
私が大切にしたいのは、その順番だ。
今の学力を、将来の限界にしてはいけない
私は、成績や偏差値を軽視しているわけではない。
むしろ、指導するうえでは細かく見る。
模試の結果も、定期テストの点数も、評定も、志望校との差も確認する。
ただ、それらは現在地を知るための情報であって、その子の将来に判決を下すためのものではない。
今、数学が苦手だから理系には進めない。
今、英語ができないから難関大学は無理。
今、勉強する習慣がないから、この先も変わらない。
そうした判断を、大人があまりにも早く下してはいないだろうか。
もちろん、残された時間や本人の状況によって、現実的に難しい進路はある。努力すれば必ず何にでもなれるなどと言うつもりはない。
しかし、「今はできない」という事実と、「これからもできない」という予測は別のものだ。
その間には、私たち教育者が働きかけられる余地がある。
基礎に戻って教え直すこと。
教材の難易度を変えること。
勉強の順番を組み替えること。
一日の課題を、本人が実行できる大きさまで分けること。
間違えた問題について、なぜ間違えたのかを一緒に考えること。
勉強の成果が出なければ、本人の努力だけでなく、こちらの指導方法も見直すこと。
そうした地道な作業を経ずに「この子には無理だ」と結論づけるのは、私にはどうしても早すぎるように思える。
私は、生徒の可能性を無責任に信じたいわけではない。
可能性があると言うのなら、その可能性を現実に近づける方法まで考えるのが、教育者の仕事だと思っている。
選択肢のない自由は、自由と言えるのだろうか
私は、子どもの進路は最終的に本人が決めるべきだと考えている。
どんな学校へ進むのか。何を学ぶのか。どんな仕事をするのか。どんな人生を送りたいのか。
それを大人が一方的に決めてよいはずがない。
ただし、ここには一つ問題がある。
自分で選ぶためには、選べる状態でなければならないということだ。
例えば、将来ある分野を学びたいと思ったとする。
けれど、それまでに必要な学力を身につけていなければ、希望する学校に出願することすら難しいかもしれない。
本当は興味のある学問が見つかったのに、苦手科目を放置してきたことで、その道に進めないかもしれない。
もちろん、学力だけで人生の選択肢が決まるわけではない。経済的な条件や家庭環境、健康状態など、本人の努力だけでは変えられない事情もある。
だから、教育によってすべての選択肢を保証できるとは思っていない。
それでも、教育によって減らせる制約はある。
知らないから選べない。
基礎がないから挑戦できない。
失敗すると思い込んでいるから、最初から候補に入れない。
私は、そういう状況を少しでも減らしたい。
私にとって教育とは、子どもを大人の望む進路へ誘導することではない。
将来、その子が自分の進む道を決めるときに、できるだけ多くの道を自分の意思で比較できるようにしておくことだ。
大学へ進まなくてもいい。
難関大学を選ばなくてもいい。
勉強して身につけた力を、まったく別のことに使ったっていい。
ただ、その選択が「自分にはそれしかできなかったから」ではなく、「いくつかの道を考えたうえで、自分はこれがしたいと思ったから」であってほしい。
私は、その違いを大切にしている。
だから私は、高い目標を勧める
私が生徒に難関校を目指してみないかと勧めるのは、大学の名前で人間の価値が決まると思っているからではない。
難しい目標を設定することによって、初めて見えてくる課題があるからだ。
志望校までの距離が分かれば、必要な勉強が分かる。
必要な勉強が分かれば、今の自分に足りないものが分かる。
足りないものが分かれば、何から始めるべきか考えられる。
私は、そうして現在地と目標の間に道筋を作ることを大切にしている。
もちろん、目標を高くすれば必ず成長するわけではない。
本人が納得していない目標を押しつけても、苦しくなるだけだろう。現実からあまりにも離れた目標を掲げ、何の支援もせずに努力だけを求めるのなら、それは指導とは言えない。
高い目標を掲げさせる以上、大人にも責任が生じる。
なぜその目標を勧めるのか説明すること。
達成するために何が必要なのか示すこと。
本人の生活や健康に無理がないか考えること。
途中で状況が変われば、計画を修正すること。
目標に届かなかったときも、その過程で何を身につけたのかを見つめること。
私が求めたいのは、ただ難しい学校の名前を書かせることではない。
今の自分には難しいことでも、適切な方法を考え、取り組み、できることを増やしていく経験だ。
仮に最後に別の進路を選んだとしても、その過程で身につけた学力や学習習慣、考える力まで無駄になるわけではない。
そして私は、生徒に「自分は思っていたよりもできる」と知ってほしい。
勉強だけが、子どもの人生ではない
一方で、私は学力を上げることだけを教育だとは思っていない。
部活動に打ち込むことにも意味がある。
芸術やスポーツに夢中になることにも意味がある。
学校行事や友人との時間、初めて行く場所での経験にも、その子の考え方を変える力がある。
例えば、部活動の大切な大会と模試の日程が重なったとき、私は機械的に模試を優先させればよいとは考えない。
本人が大切にしていることを聞き、ほかの日程で受験できないか考える。必要であれば、別の方法で学力を測る。
ただし、部活動が終わった後に何をするかは、一緒に具体的に決める。
「部活を頑張っているから、今は何もしなくていい」と放置することも、「受験生なのだから、部活を諦めろ」と迫ることも、私が目指す指導とは違う。
どちらも大切にしたいのなら、どうすれば両立できるのか。
その方法を考えるのが、私たちの役割だと思う。
大学祭ツアーを企画するのも、根底には同じ考えがある。
大学は偏差値表の中にだけ存在するものではない。
実際にキャンパスを歩き、学生の雰囲気を感じ、どんな学問や活動があるのかを見る。
そうして初めて、「この大学で学んでみたい」と思う子もいるだろう。
数字だけでは見つからなかった興味が、一つの経験によって生まれるかもしれない。
そもそも、子どもが自分の将来を考えるためには、世の中にどんな道があるのかを知る必要がある。
知らないものを、選ぶことはできない。
だから私は、机に向かわせることと同じくらい、子どもが自分の世界を広げる経験も大切にしたい。
厳しさと、押しつけの境界線
ここまで書くと、私の考え方には矛盾があるように見えるかもしれない。
本人の自由を尊重したいと言いながら、高い目標を勧め、勉強するように求める。
それは結局、大人の価値観を押しつけているだけではないか。
この批判は、簡単には退けられないと思う。
私自身、指導するときに気をつけなければならない問題だ。
講師は、生徒よりも受験の仕組みを知っている。何を勉強すれば成績が伸びるのか、どの学校を目指せるのかについても、多くの情報を持っている。
その知識の差がある以上、講師の提案は本人が思っている以上に大きな影響力を持つ。
だからこそ、私は「自分が正しいと思う進路」と「本人にとって望ましい進路」を混同してはいけない。
難関大学へ行けば必ず幸せになれるわけではない。
本人にとって大切なものが、学歴以外のところにある場合もある。
また、努力を求めることができるのは、努力するための条件が整っているときだ。
心身の不調や生活上の事情で勉強が難しい生徒に、健康な生徒と同じ方法を求めても、適切な指導にはならない。
必要なのは、その子が抱えている障壁を把握し、取り組める方法を一緒に考えることだ。
ただし、事情に配慮することと、成長を期待しなくなることは違う。
できない理由があるなら、その理由に合わせて方法を考える。
一度に多くのことができないなら、量を調整する。
通塾が難しければ、別の形で学習を続けられないか考える。
それでも難しいときには、学習以前に優先すべきことがないか見直す。
私は、そうした調整をしたうえで、生徒が今できることには取り組んでほしいと思っている。
約束したことを守る。
できなかったときには、その理由を一緒に確かめる。
間違いを指摘されたら、次にどう直すか考える。
このような姿勢は、志望校がどこであっても必要だ。
優しく接することと、何も求めないことは同じではない。
厳しく接することと、相手の事情を無視することも同じではない。
私は、その境界線を間違えない教育者でありたい。
教育者の仕事は、いつまでも代わりに決めることではない
私は、学習計画を細かく立てる。
参考書の進め方を決め、いつまでに何を終えるのか確認し、計画通りに進まなければ原因を考える。
けれど、本当はずっと私が管理し続けることが理想なのではない。
最終的には、生徒自身が自分の課題を把握し、自分で計画を立て、必要に応じて修正できるようになってほしい。
今は私が問いかけていることを、いつか自分自身に問いかけられるようになってほしい。
何のために勉強するのか。
今の自分には何が足りないのか。
この目標は、本当に自分が望んでいるものなのか。
別の道を選ぶなら、何を得て、何を手放すことになるのか。
そうした問いに、自分なりの答えを持てるようになることが大切だと思う。
私の提案した進路を、最終的に生徒が選ばないこともあるだろう。
それでいい。
十分に考え、必要な情報を集め、自分の意思で選んだのなら、私はその判断を尊重したい。
それこそ、私が目指している教育の一つの到達点だからだ。
反対に、大人が用意した道を何も考えずに進むだけでは、たとえ難関大学に合格したとしても、私が望んでいる教育が実現したとは言い切れない。
教育者の仕事は、自分の正解を子どもに再現させることではない。
その子が、自分の正解を探せるようにすることだ。
最後に
子どもは、まだ自分の人生をすべて見通せるわけではない。
今は興味のないことが、数年後には夢になるかもしれない。
今は苦手なことが、いつか得意なことになるかもしれない。
今は想像もしていない世界に、将来進みたくなるかもしれない。
だから私は、子どもの「今」だけを見て、将来の可能性を狭めたくない。
できるけれど、やらない。
それは、本人が考えて選んだことかもしれない。
けれど、できないから、やらない。
もしそうであるなら、私たち大人が手を差し伸べられる余地がある。
私は、その違いを見過ごしたくない。
もちろん、すべての子どもを同じ高さまで引き上げられるわけではない。目指す高さも、そこへ向かう方法も、一人ひとり違っていい。
それでも、今よりもできることが増えれば、昨日までは考えられなかった未来を想像できるようになるかもしれない。
そして、いつか自分の人生を選ぶときに、「これしかできない」と言うのではなく、「自分はこれがしたい」と言ってほしい。
私が子どもたちに渡したいのは、特定の学校への切符ではない。
自分の人生を、自分の意思で選ぶための力だ。
高みを目指させるのは、後で本人が選べる選択肢を増やすためだ。
だから私は、今日も生徒に高みを目指させる。
第一ゼミナール三鷹
武蔵