看板を立てる前に、問いを立てたい。
2026/10/29
合格実績というものは、実に便利です。
数字を並べれば華やかになる。大きな文字で印刷すれば、遠くからでもよく見える。立派な額に入れれば、さらに立派に見える。
もっとも、額が立派だからといって、中身まで立派になるとは限りません。
額縁屋さんには申し訳ありませんが、そこは教育の仕事ですから。
もちろん、合格した生徒たちの努力は素晴らしい。胸を張っていいし、大いに喜んでほしい。
ただ、その横で大人まで胸を張りすぎると、少々気になることがあります。
伸びたのは、生徒の学力でしょうか。それとも、大人の鼻でしょうか。
どうせ伸ばすなら、前者のほうが喜ばしいと思うのです。
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目利きと腕前は、同じではない。
優秀な生徒を集めて、優秀な学校に送り出す。
立派なことです。
ただし、それだけで指導力のすべてを語れるかといえば、話は別でしょう。
料理に例えるなら、最高級の食材を仕入れる目利きと、その食材をおいしい一皿に仕上げる腕前は、別の技術です。
もちろん、良い食材を台無しにしないのも技術のうち。
しかし、仕入れた時点で十分立派だった食材を見せられて、「この料理人はすごい」と言われても、少し困ります。
包丁を握る前から、ずいぶんおいしそうだったものですから。
教育も同じではないでしょうか。
最初から成績の良かった生徒が、良い学校に合格した。
それも一つの成果です。
けれど、なかなか勉強が得意になれなかった生徒が、少しずつ自信をつけて、以前は考えもしなかった進路を選べるようになった。
私たちは、そこにも同じくらい大きな価値があると思っています。
生徒を選ぶ力と、生徒の選択肢を増やす力。
似ているようで、まったく違う話です。
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足し算だけでは、塾の実力は測れない。
合格者数は、足し算で表せます。
何人合格したか。何校に合格したか。
分かりやすくて、実に結構です。
ただ、教育を数字で語るなら、ほかにも知りたい数字があります。
入塾したとき、どれくらいの学力だったのか。
そこから、どれくらい伸びたのか。
思うように成績が上がらなかった子に、どんな手を打ったのか。
そして、何人が最後まで学び続けられたのか。
合格者を足し算することには熱心でも、途中で失ったものを振り返らないのでは、少々計算が合いません。
数字を扱う仕事なのですから、都合のよい数字だけで答案を埋めるわけにもいかないでしょう。
もっとも、これは私たち自身にも向けた問いです。
他人の答案に厳しく、自分の答案だけ甘く採点する。
そんな先生には、私だって教わりたくありません。
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机を並べるだけなら、家具屋さんも名教師です。
自習は大切です。
自分で考え、自分で調べ、自分で問題を解く。その積み重ねがなければ、学力は身につきません。
しかし、ここで一つ区別したいことがあります。
「自分で学べるように育てること」と、「自分で何とかしてもらうこと」は違う。
似ているのは言葉だけです。
分からない問題を前に手が止まったとき、何につまずいているのかを見抜く。
必要な説明をし、解けるところまで伴走し、次は一人で解けるか確かめる。
そこに、教える仕事があります。
机を用意することも、静かな環境を整えることも大切です。
ただ、机を並べただけで学力が伸びるなら、家具屋さんはとっくに名教師でしょう。
「自立」を掲げるなら、まず自立するための力を育てたい。
指導の手を抜くことと、生徒の手を離すことは、同じではありません。
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お祝いの言葉では、数学の問題は解けない。
卒業した生徒の活躍を喜ぶ。
それは素晴らしいことです。
ただし、喜ぶことと、育て続けることは別の仕事です。
高校に入れば、勉強はさらに難しくなります。
中学校では得意だった数学でつまずくこともある。
英語の授業についていけなくなることもある。
部活動に夢中になっているうちに、大学受験の準備が遅れることだってあります。
そんなとき、「頑張れ」と声をかけることは誰にでもできます。
けれど、励ましの言葉だけで三角関数が解けるなら、参考書はずいぶん薄くて済むはずです。
祝福できることと、指導できることは違う。
卒業後のことを語るのであれば、卒業後の勉強にも本気で向き合いたい。
少なくとも、私はそう考えています。
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いちゼミが増やしたいのは、合格者の肩書より、生徒の選択肢です。
第一ゼミナールには、高等部があります。
小学生、中学生、そして高校生。
学ぶ内容も、目標も、一人ひとり違います。
基礎からやり直したい子もいれば、難関大学を目指したい子もいます。
一般選抜で勝負する子もいれば、推薦入試や総合型選抜を考える子もいます。
そのすべてに、同じ教材と同じ勉強法を押しつければ済むとは思っていません。
だからこそ、いちゼミには少人数クラスがあり、完全1対1の個人指導があり、学習計画と進捗を管理する受験コーチングがあります。
得意な子には、さらに高い壁を。
苦手な子には、その子に必要な一段を。
目指すのは、全員を同じ学校に入れることではありません。
一人ひとりが、自分の望む進路を選べるだけの力を身につけることです。
どれだけ素晴らしい学校の名前を並べても、生徒自身の未来が豊かになるとは限りません。
逆に、今は目立った成績を残せていなくても、その子の可能性が小さいとは限りません。
私たちは、後者を簡単に見限りたくないのです。
生徒の名前を看板にするより、生徒が自分の名前で未来を切り開けるようにしたい。
そのために、授業をする。
問題を解く。
間違いを直す。
進路を一緒に考える。
そして、高校生になっても、大学受験が近づいても、必要な指導を続ける。
大きな言葉を掲げるより、目の前の生徒に必要なことを、一つずつ。
派手さでは負けるかもしれません。
ですが、教育はもともと、声の大きさを競う仕事ではないでしょう。
看板の大きさではなく、教えた生徒の可能性で勝負したい。
最後に、少しばかり余計な一句を。
実績で
看板立てて
天狗鼻
生徒が見えず
立つ瀬も消える
西村武蔵
私たちは、看板よりも、まず生徒の未来を立てたいと思います。